作者の仮説的意図と実際の意図

応用哲学会第10回年次研究大会で聞いた佐藤公大さん(慶應義塾大学博士課程1年)の発表「〈作品の意味〉と〈作者の意図〉――仮説的意図説への挑戦――」(4月7日C会場L-11 13:15-14:05)について、質問&コメントしたんだけど、休憩時間に塩谷さんと話してみても、どうにもうまく自分でも言いたいことが言えていなかった気がするので、たぶんオレこういうこと言いたかったんだろうなあということをメモ。

これは塩谷さん宛てのメールを転載。佐藤さんにも出そうと思ったのだけど、メールアドレスが不明なので、出してない。

−−−ここから
塩谷さん、

先日はお会いできて幸いでした。

作品の作者の意図と語り手の意図との問題、一部説明が不十分、かつ行為論への含意という点で、私自身が勘違いしていたことがありますので、メールします。

作品(主に小説や詩などのフィクション)の作者の意図と、そのフィクションの語り手の意図とは、別々に理解可能で、作品から接近できるのは語り手の意図(仮説的意図)だけではないかという、私の仮説には変更がありません。

ここから考えると、当日の佐藤さんの発表では、語用論における「関連性の理論」を用いることで、作者の意図に接近できるのではないかという議論に対して、私は反論したかったのであって、つまり、「関連性の理論」によってはフィクションの「語り手」の意図に対して接近できても、その背後にいる作者の意図には接近できないのではないかと考えます。ですので、「間接性の理論」で接近しようとする「意図」は、仮説的意図にならざるを得ないのではないかと。

作者の「実際の意図」に関しては、当日発表者の佐藤さんが主張されていたように、テキストの外の証拠に言及して推測することしかできないように思います。また、作者自身も「実際の意図」がどこまでわかっているかというと、後で気づくことがあるでしょうし、また同時に、「(作品の仮構された)語り手の意図」に関しても、やはり後で気づくということがあっておかしくないと思います。

行為論に対する含意としては、

  1. 自己の行為について事後的に語られた物語りにおいても、やはり仮説的な自己が創出されている可能性があり(物語論においては、フィクションと歴史・(ことばによる)自己体験の振り返りは、語られるという点においては存在論的に等しいものと考えらているように思います)、あとから語られた物語を通じて、テキストの中からのみ実際の意図に直接接近することは、他者にとって困難である。
  2. 語る自己と語られる自己の実際の意図の乖離が存在する可能性があるだけでなく、自分自身にとっても語る自己と語られる自己の実際の意図が透明に見えているわけではない。つまり、自分自身にとっても語られる自己の実際の意図は、おそらく行為の時には存在したとしても、あとからは接近が困難で、推測的に構成するしかないだろうと考えられます。
  3. とはいえ、現実の法律実務などにおいて明らかなように、行為を行った際の「行為者の実際の意図」が存在することを想定して、私たちの社会の自由や責任の体系はできあがっています。そこで、上記のフィクションを検討したことでわかることは、語られたこと(たとえば、加害者や被害者という行為者自身の自白や証言)のみで行為者の意図に接近することは、きわめて困難で、いずれにせよ語りにおける「行為の実際の意図」の説明は、さまざまな証拠から推定ができるだけだということになりそうです。
  4. 行為者にとっても、自己の行為の意図があとから発見されるというのは、上記の(2)をレトリカルに表現しているだけでなく、リベットの『マインド・タイム』で示されているように、行為を行う身体の筋電のほうが意思を示す脳波よりも先に発生するという事態などを考えると、意思(意図)→行為という図式には何か一面的なものがあるように思われるということです。

  5. その一方で、やはり法などの自由や責任の体系においては、意思(意図)→行為という枠組みをひとまずは使わなくてはならないはずで、これを整合的に使っていくとともに、意図の問題をないがしろにしないとしたら、上記の(3)のような制約への配慮が重要ということになりそうに思います。

現在考えられることは、以上のようなものです。十分に自分が考えたことが言えているかどうか不明ではありますが。佐藤さんにも送っておこうかしら。
−−−ここまで

で、佐藤さんの発表で、「作者の実際の意図」が重要とされたのは、上記で検討したように、佐藤さんの関心の中心に行為論という文脈があるからということになると思う。

いずれにせよ、文字であれ口頭であれ語られたものから、行為の意図に直接たどり着くことができるかどうかは簡単に言えない場合もあるということなんだろうな。