本日の講演録

本日、下記の2本の講演録を読みました(なんだか本日は「ですます」の気分)。佐藤さんの論文のほうは、千葉大学・土屋先生のお勧めです。



  • 柄本三代子「健康リスクを食べる−「的確な誤読」への誘い」『社会情報』Vol.18, No.1(2008年12月) 33-52
  • 佐藤純一生活習慣病の作られ方−健康言説の構築過程」『社会情報』Vol.18, No.1(2008年12月) 53-81


いずれの論文も社会学・哲学の実証と理論を踏まえた「学問」ですが、あえて教訓を引き出すならば、「メタボ」や「生活習慣病」などの個人に兼好の義務を押し付ける健康言説に惑わされず、「人間なるときは病気になる」と達観して、調子が悪くなったらそこだけ治して病気から離れるのが一番幸せに長生きする方法−−という佐藤さんの主張は、納得です。ただ、健康言説を見切ったと思ったとしても、健康リスクを回避しようと知識や情報を取り入れようとすればするほど、さらに新しい別の健康言説に絡めとられている可能性もある・・・という結構陰鬱な状況も、柄本さんの分析は示しているように思います(これはちょっと善意での読み込みすぎかなあ)。


以下、講演の要約を掲載します。



社会学者の柄本さんの講演は、世の中にあふれる健康リスクに関するメディア論的な分析。いわゆる「トクホ」と呼ばれる食品の制度化と、近年のCMや健康情報番組(たとえば、もうなくなってしまったけど、『あるある大辞典』や『午後はおもいっきりテレビ』など)での取り上げられ方、視聴者の受け止め方を実証的に分析した研究から、今回の講演は組み立てられています。


本講演では、確実ではないが、「健康」維持・増進に確率的に影響がありそうな食品や成分が、1980年代以降国の政策として「トクホ」として指定され、CMでは視聴者の「誤読」を誘うようなキーワードやイメージが利用されて、消費をあおる構造が指摘されています。また、1980年代には健康リスクがあるところでは、お金が動くことを国や企業は発見します。この健康リスクをあおって消費者を消費に駆り立てる要素が、「トクホ」にはあるわけです。


しかし、確かに「トクホ」には消費者をだまして消費を促進するという傾向があるものの、STSなどで言われる「欠如モデル」にしたがって公衆を教育し、啓蒙していけば、このような健康リスク言説に騙されなくなるかというと、おそらくそんなことはないと、柄本さんは主張しています。そのメカニズムは明確には説明されていませんが、企業や国は公衆の知識の増進を先回りして健康リスク言説をさらに煽るでしょうし、消費者としては「健康リスク」の存在を認めてしまった時点で「健康リスク」に関する情報や知識に煽られる傾向を獲得してしまっているから、というような相互依存の構造を想定しているようです。


ただ、トクホ全盛の背景に、単一の病気の原因を取り除けば病気が治るという「特定病因論」から、「確率論的病因論」への医学のパラダイム変換があるという問題がきちんと講演中で指摘されていなかったり、着地点をどこに置くのかがよく見えない議論であるため、なんだかわかりにくい内容です。確率論的病因論への転換は、質疑応答で(おそらく)医学者から助け舟が出されています。


次に、医学哲学者の佐藤さんの講演は、柄本さんの実証分析からさらに踏み込んで、医学が国民統治の道具となった近代の問題に切り込みます。


近代国家は、国民を「思いやる」国家として成立してきたわけですが、これが国民一人一人の状態を把握して管理するという方向にも進んでいます。つまり、近代国家は潜在的な監視国家だと言ってもよいかもしれません。


佐藤さんによれば、「病気」とは、ある個人の逸脱状況に対する一種のレッテル貼りだといいます。この逸脱とは医学的な意味でのものかもしれませんし、政治・社会状況の問題が個人や集団に影響を与えているのかもしれませんし、もしかすると個人の道徳的な堕落と関係しているのかもしれません。レッテル貼りをする人々の立場や視点によって、どんなレッテル貼りをするかは変わってきます。伝染病や疫病の蔓延は医学的問題でもあると同時に、公衆衛生や政治・経済の機能不全を表わしているのかもしれません。しかし、それをどうとらえるかは恣意性があるということが、近代病理学の確立者として知られるウィルヒョーのエピソードなどから説得的に語られます。つまり、病気の定義はだれかがつくったものだということ、これが医学哲学の第一の仮説(前提)です。


次に、佐藤さんは、第二の仮説として、病気の定義をつくる医学の知識そのものも社会的文化的文脈の中で構築されてきたとします。


さらに、第三の仮説として、明治以降西洋医学漢方医に取って代わった歴史も、19世紀以降の「医学の制度化」の中で眺められるべきものだとされます。国が定めた医学教育を受けて、国家資格である医師免許を取得した者でなければ医療行為に従事できないし、医療行為も何が正当なものかは法律や報酬制度によって枠がはめられています。このような事態は、19世紀の国民国家の成立以後に初めて生じたと、佐藤さんは言います。、


さて、このような3つの仮説を前提として、現代の生活習慣病の言説はどのように見えるかと言うことを、佐藤さんは問題とします。第一に重要なのは、先ほど述べたように、ここ数十年で医学は特定病因論から確率的病因論(リスク論)へとパラダイム転換を起こしたという事実です。これは、特定の病因である病原体が起こす感染症の問題がほぼ解決され、いわゆる慢性疾患が医学の課題となってきたことによります。


慢性疾患の原因は一つと考えることはできず、複数のリスク要因の相互作用によって逸脱が生じると考えられます。そうすると、たとえば、虚血性心疾患についてリスクファクターを統計学的に抽出することが、医学の重要な課題となります。ここでリスクファクターとして選ばれるものも、実は恣意的な選択が働いていると、佐藤さんは言います。というのも、リスクファクターを決定する中でもすべてを調査するわけにはいかないので、なんらかの仕方で目をつけた要因を取り上げるしかありません。アメリカで行われた調査では、アメリカ的価値観が反映していたと、佐藤さんはいいます。



そうして虚血性心疾患のリスクファクターをつぶしていくと、結局残ったのは「タバコ」と「タイプA」(モーレツ社員型の「仕事がないとイライラする」などの性格)、「コレステロール高値」だとされます。その後コレステロール値を下げる薬(メバロチン)が開発され、「タイプA」もベトナム戦争後の世相を反映した「考え方」に過ぎないとされると、最後に残ったリスクファクターがタバコです。当時の禁煙運動に乗って、リスクファクターとしてのタバコに注目が集まり、虚血性心疾患だけでなく、癌や呼吸器疾患のリスクファクターとしても注目され、「悪」として追放されていきます。


しかし、実は「リスクファクター」と実際の病気との相関しかわからず、機序は不明のままにもかかわらず、まるでリスクファクター(ここでは、タバコ)が、特定病因論的なパラダイムのもとの病院のように排除が行われていたと、佐藤さんは評価します。


翻って、日本では「成人病」という社会的概念が作りだされます。これは、労働力として働いてほしい働き盛りの人びとが死亡する病気(脳卒中、癌、心臓病など)をカテゴリーとしてまとめたものにすぎないとされます。成人病概念の創出(1957年)は確率的病因論の概念以前のことだそうです。この成人病をなくすために、国家は「早期発見早期治療」という対策を考えだし、実行に移します。これは、第一次予防(病気が出る前に病気の芽を摘む)、第二次予防(早期発見早期治療)、第三次予防(進行した病気が機能不全や死に至らないようにリハビリなどをする)のうち、第二次予防の健康戦略です。


現在も「早期発見早期治療」は、日本では有効な戦略とみなされているが、実は欧米では「早期発見」はできても早期治療が必ずしもできるわけではいことがわかってきたといいます。厚生省は、そこで第一次予防に健康政策の中心を移して、「生活習慣病」という概念を定義して、対策を開始します。ここで、「確率的病因論」が取り上げられ、生活習慣そのものがリスクファクターとして取り上げられます。「生活習慣病」が革命的だったのは、病気ではない人が予防の対象となったこと、治療期間が子供から死まで無限に伸びたという2点です。さらに、医学の対象が病気ではなく、人びとの行為となった。結局、かつての道徳家の仕事が医者の仕事になったと、佐藤さんはいいます。


治療対象が行為となり、リスクファクターが生活習慣となることで、国家も社会も企業も病気の責任を逃れて、すべて個人の責任にすることができるようになります。国家にしてみれば、生活習慣病という概念で個人の行動を管理することができるようになり、医学はこの管理に手を貸していると、佐藤さんは言います。「メタボリック症候群」も「生活習慣病」の延長にあって、8学会が「メタボリック症候群」という概念をつくったことになっているが、実は厚生省が準備してつくらせたものだと佐藤さんはいいます。


「メタボリック症候群」概念は、国民管理の手段としてはきわめて巧緻です。といえうーのも、国民の半数がメタボリック症候群及びその予備軍になるからです。人口全部を治療対象もしくは健診対象とすることができれば、集団としての病気・死亡を減らすことができます(ポピュレーション・ストラテジー)。さらに、生活習慣改善やトクホなどの健康改善の手だてが重要となりますから、国家としては医療費を削減しながら、周辺産業が儲かるという図式が生まれます。


しかし、結局生活習慣病予防を建前とする「健康増進法」などは、近代国家で前提とされてきた国に健康であることを要求できる社会権がなし崩しになっていくと、佐藤さんは言います。健康を個人の義務と定め、健康か不健康かで人びとを分類して、ダメな人々は史の中に放棄されてしまうという政策がこの延長にあるといいます。


本当にそこまでいくのかどうか、私自身はわかりませんが、現在までの医療人類学や社会学などの成果を下敷きにして、確率的病因論のもとにおける生活習慣病やメタボリック症候群の意義とその背景を透視する議論はとても興味深く、またその立論も無理がないと思いました。