『思考の紋章学』


本日、澁澤龍彦『思考の紋章学』(河出書房、1985年)を再読。同書は大学時代の愛読書の一つで、カフカの「家長の心配」という短編に登場する「オドラデク」という謎の物体について、澁澤が書いていることを確認したくて、再読した。オドラデクは、人工物なのか、自然物なのかまったくわからない謎の物体だ。ある家に住み着いていて、言葉も話すが、その姿は星型の糸巻きのようで(実際に糸が出ているらしい)、星型の中央から1本の棒が飛び出ていて、そこに直角に棒が取り付けられている。この短い棒と星型の角の一つを使って、よちよちと歩いても見せるそうだ。うーん、何者なのか。


瀬名秀明ロボット学論集』(勁草書房、2008年)を読んでいて、オドラデクを思い出し、実家に帰ったおり、カフカの短編集と本書を持ち帰った。瀬名さんの論文集の書評は書き上げたが、『思考の紋章学』は読み出すとやはり面白くて、仕事場への往き帰りの電車内で耽読した。


古今東西の文学や怪異譚、エロチックな伝承・説話などを縦横に行き来して、該博な知識と際立った表象能力によって、シンボルやイメージを読み解くさまは、読んでいてたいへん心地がよい。本書では、繰り返し、時間/歴史の廃棄というテーマが語られ、無時間的な永遠のユートピアを象徴する石や金属への偏愛が語られ、生産から引き離されて、イメージと戯れる幼児期や老年期の悦びが称揚される。そもそも澁澤龍彦のエッセイや小説は、時間/歴史の廃棄と生産との対立と言う遊戯性や無償性をめぐるものではあるが、本書はそのテーマがきわめて際立っており、筆者は繰り返し愛玩してきた。一種知的な退行の夢を見させてくれる書物である。


夢の同心円構造への退行というテーマは、泉鏡花の『草迷宮』を題材として、次のように語られる。

「・・・秋谷屋敷という一つの迷宮世界、一つの魔圏が、主人公たる明の退行の夢の世界でしかなかった、ということだろう。またしても同心円のイメージが現われる。しかも今度は、すべての物語の時間がヴェクトルを逆にして、明の夢に向かって収斂するのだ。いや、明の夢が大きくふくれあがって、すべての物語の時間を呑みこんでしまったのだといってもよい。その夢のなかで、明は幼児になっている。・・・明の側に、迷宮から脱出する意志がなかったのも、化けものと戦う気持がなかったのも、考えてみれば道理というべきであろう。彼はみずからすすんで、芽衣九と言う一つの退行の夢のなかに落ち込んだのだから。」(「ランプの廻転」22-23頁)


時計の円環運動もまた、歴史や時間の廃棄、生に対置される死なのだと、澁澤は書く。

「生命が時間とアナロジカルだとすれば、死は風景、すなわち空間とアナロジカルなのである。したがって、時間を空間的に表現する(時計におけるように)ということは、生を死によって表現するということとアナロジカルなのだ。ポーのネクロフィリア(屍体愛)は、おそらく彼の空間への偏愛、あるいは時計への嗜好と一つのものである。同じ原理の異なる二つの発現だといってもよい。時計とは、まさしく時間のネクロフィリアではないだろうか。ポーにとっては、完璧な時間の表現が時計というオブジェに近づくように、完璧な生は無限に死に近づくのである」(「黄金虫」198-199頁)


学問的方法から言えば、きわめてデンジャラスではあるが、論証抜きでイメージの力でズバリと切り込む澁澤の手つきは手練れている。偏愛するイメージやテーマをめぐって次から次へと思考や想像が展開し、描き出す「紋章」を再びいつか玩弄することとしよう。