司馬遼太郎『韃靼疾風録』上・下(中央公論新社、1991年1月10日初版、2004年11月30日第18刷)

中学、高校の頃、小松左京星新一筒井康隆など日本のSFを結構熱心に読んでいたのだが、父親の書棚にあった司馬遼太郎を時折読んだ。現在覚えているのは、『燃えよ剣』、『新撰組血風録』、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『峠』など。幕末の群像を描いた小説に偏っているのは、たぶん父親の好みを反映していたのだろう。

司馬遼太郎の時代小説はもちろん歴史ではないので、限界がある。歴史学では現代の視点から当時の人びとの行動や事件を解釈することは大いにいさめられているのだが、司馬遼太郎の時代小説は、現代の価値観や物の考え方・見方から当時の人びとの行動や事件を解釈し、位置づけることをまったくためらわない。英雄と呼ばれるべき人々にのみ焦点を当てて、日々の生活を送る中でそれと知らず歴史を動かしてきた民衆に関心をもたないように見える点も、現代の歴史学から見れば、批判されるべきポイントだろう。実証性という観点でも、物語や司馬さんの主張に役に立つようならば、恣意的に歴史的資料を取り上げ、自由自在に使っている印象を受ける点でもマイナスである。

もちろんこういう司馬遼太郎の時代小説の限界なんてものに気づいたのは、大人になってからで、当時は結構楽しく読んでいた記憶がある。とくに、定期試験や受験など、追い詰められた状況になると、SFや時代小説に手を出していた覚えがある。

大人になって、司馬遼太郎の時代小説は、魅力的ではあるものの、歴史を特有のゆがめた観点から照らしているという批判を見るようになってから、しばらく司馬遼太郎を読まない時期が続いた。科学技術史という分野を専門にして、いちおう歴史家の一員であるという自覚もあるので、司馬遼太郎のいわゆる「司馬史観」には警戒的にもなった。

しかし、最近になって、なぜか司馬遼太郎を耽溺するかのように読むようになった。司馬史観はそのまま受け入れることは致命的にまずいけれど、歴史の一つの見方としては興味深いものがあるし、批判的に読むならば、自分がよく知らない時代や知らない社会の問題について何か示唆的なところがあるという事実に気づいたからである。

その始まりが『韃靼疾風録』で、中国大陸・朝鮮半島・日本列島の東アジア文化圏にまたがる文化の連続性と断絶について考えたことが、司馬遼太郎熱復活のきっかけだった。同書は、ヌルハチからホンタイジ、ドルゴンという清朝を築いた女真族満州族)の英雄たちの物語であって、日本の平戸から、海賊にさらわれて遭難した女真族の貴婦人「韃靼公主」を女真族の故地まで送り届けた日本人・桂庄助の視点で、清朝建設の過程を描く。

もちろん桂庄助の視点といいながら、本書は作者・司馬遼太郎の視点で描き出されているわけで、司馬史観が横溢しているわけだが、文明とは何かという大きな問いが投げかけられていること、そして東アジア文化圏を貫く儒教的思想の中国大陸・朝鮮半島・日本における変奏を見ることで、東アジア文化圏諸国の相互理解と無理解の根源を見ることができるように思う。文明を知らぬ蛮族・女真族のたくましさと健康性、文明人たる明人たちの虚弱さと偏見の対比が興味深い。

確か、2009年3月中旬あたりに読了。